
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ■テンプレート (■ノート ■解説) ■日本の市町村PJ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八戸市(はちのへし)は、青森県東南部に位置し、太平洋に面する特例市で、県下第二の都市である。
目次 |
八戸市は人口24万人を有する青森県南部地方の中心都市である。経済圏である八戸都市圏は約33万人の人口を擁しており、商圏は隣接する岩手県北東部におよび、商圏人口は東北地方有数の約60万人である。直線距離で東京から北へ560キロ、仙台から北に255キロ、札幌から南に285キロのところに位置する。
全国有数の漁獲高を誇る八戸港と東北有数の工業拠点を持ち、港町と工業都市として発展してきた都市である。新幹線、高速道路、国際航路の複数の交通網が整備されており、東北新幹線の終着駅である八戸駅から、はやて号が八戸東京間を最短2時間56分で運行されている。また、東北自動車道八戸ICから川口ICまで約8時間で結び、八戸フェリー埠頭からカーフェリーが八戸苫小牧間を毎日4往復している。そして八戸港は漁港のほか国際航路として、東南アジア、中国・韓国、北米、横浜内航フィーダー航路の4つのコンテナ航路を持っている。[1]
また、2002年の東北新幹線開業に伴い観光地へのアクセスがよくなり、十和田湖や八甲田山、奥入瀬渓流、三陸海岸への玄関口になっている。これと合わせて、漁獲高日本一であるイカの珍味や八戸市の郷土料理せんべい汁や南部せんべいなどが多くのマスコミに注目されるようになり、中心市街地にある観光地のみろく横町などで堪能することができるようになった。
そして文化面においても国内有数の遺跡群や文化財や工芸品の宝庫であり、伝統芸能のえんぶり(朳)、八戸三社大祭、騎馬打毬は国の重要無形民俗文化財に指定されている。また、「八幡馬」「南部姫毬」などの伝統工芸品が登録されている。
八戸市は冬季スポーツのスケートが古くから市民に親しまれており、『氷都八戸』として1930年に第一回全日本スピードスケート選手権が開催され、戦後から国民体育大会冬季大会のスピードスケートの競技会場に選ばれている。このため、市民の中でもスケートやアイスホッケーが盛んに行なわれ、実業団体やジュニアチーム、女子チーム、素人アイスホッケーを含め、40チームが結成されている。
市域は青森県の南東部にあたり、北緯40度30分、東経141度30分に位置する。 東は太平洋に面し、北はおいらせ町、西は五戸町・南部町、南は階上町、岩手県軽米町に接する。市域の面積は305.17平方キロメートルで青森県の約3.4%を占め、県内の市町村で11番目の広さである。
八戸地域の地形の大部分は台地(20メートルから50メートル)で、平野部は市域の中央部に広がる。
八戸市には主に3本の川が太平洋に注がれており、北部には十和田湖から流入する奥入瀬川、中心部には一級河川の馬淵川、二級河川の新井田川が流れおり、河口付近はデルタ地帯が形成され臨海工業地帯が立地する。八戸市の南部に位置する新井田川の上流には世増ダムがあり川が堰き止められてできた青葉湖がある。
市域の東側は太平洋に面し、市域の北部から中央部にかけては臨海工業地帯が形成されている。市域の南部は宮城県北から続く三陸海岸リアス式海岸の北限となっており、種差海岸や白浜海岸、大須賀海岸の3つの海岸がある。海沿いでありながら平地がほとんど無い地形であり、大正時代に植生された松林が広っている。種差海岸はなだらかな丘に芝生や貴重な植物が自生しており、白浜海岸、大須賀海岸は非常に砂浜の環境良いため、東北地方最大の鳴き砂のスポットでもあり貴重な環境が保全されている地域である。
太平洋側気候であるが、夏は偏東風(やませ)の影響で冷涼であり、海から冷たい風が吹き付けて冷夏になる年もある。一般に気象庁から梅雨明け宣言が発表された後も、やませの影響で曇りの日が多いため、そのような気候が農作物に冷害といった被害を及ぼすこともある。また夏日にはなるが真夏日・熱帯夜が少ない都市である。例年8月後半ごろから徐々に気温が低下して、9月には最高気温が21度になり肌寒くなる。
冬は北東北にありながら降雪量が少なく乾燥し、晴天が多いため日照時間も長い。これは冬季は季節風が中国大陸から日本海を経由して湿った大気が奥羽山脈にぶつかるため、青森県の西側の津軽地方では降雪量が多く、太平洋側に位置する八戸市に雪を降らせる大気はすでに乾燥しているので降雪量は少ない。また、降雪量が少なく空気が乾燥しているため、日中でも0度以下の真冬日になる日がよくある。
以上のことから八戸市の夏は他の都市に比べて涼しく、冬は晴天の日が多い都市であるといえる。
| 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 全年 | 全国平均 | 青森市 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平均気温 (℃) | -0.8 | -0.3 | 3.0 | 8.7 | 13.4 | 16.9 | 20.0 | 22.6 | 19.4 | 13.4 | 7.1 | 1.3 | 10.4 | 15.2 | 10.2 |
| 最高気温(℃) | 2.4 | 3.6 | 7.5 | 13.9 | 18.5 | 21.3 | 23.9 | 26.5 | 21.1 | 18.1 | 11.7 | 5.0 | 14.9 | - | - |
| 最低気温(℃) | -4.0 | -3.9 | -1.2 | 4.2 | 9.2 | 13.5 | 17.1 | 19.5 | 15.8 | 9.0 | 2.9 | -1.9 | 6.7 | - | - |
| 降水量 (mm) | 56.0 | 38.5 | 64.6 | 57.5 | 104.2 | 104.3 | 153.1 | 137.9 | 194.5 | 120.5 | 89.8 | 62.4 | 1193.9 | 1388 | 986 |
| 降雪の深さ (cm) | 39.8 | 40.5 | 28.1 | 2.1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.9 | 18.8 | - | 130.4 | 739.6 |
| 日照時間 (h) | 119.1 | 131.4 | 162.9 | 182.0 | 195.2 | 172.3 | 133.0 | 161.2 | 135.6 | 157.9 | 130.2 | 119.7 | 1800.5 | 1925 | 1489 |
| 日照率 (%) | 40.2 | 43.9 | 44.3 | 45.8 | 43.8 | 38.4 | 29.1 | 38.1 | 36.5 | 45.7 | 43.8 | 41.6 | 40.7 | - | - |
八戸の地名の由来は、かつて古代末期から中世頃までの東山道陸奥国にあった郡の「糠部郡」に由来している。 現在は四戸を以外の一戸から九戸まであるが、この「戸」は現在の意訳では第○地区という意味である。そのことから八戸の「戸」は、糠部郡第八地区にあたるとされている。八戸市HPでは市名の由来を以下のように紹介している。『この「戸」は、古代律令に基づくものと考えられており、馬産地として知られていたこの地域の牧場に関連させる考え方や、蝦夷支配のために北進する朝廷側の前進基地とする考え方があります』 このことから1000年以上前から八戸という地名はあったのではないかとされている。[5]
縄文時代の遺跡として是川遺跡や風張遺跡がある。風張遺跡からは縄文後期の米粒が出土している。また、是川遺跡からは数々の工芸品が出土している。8世紀から9世紀ごろ建造された古墳として鹿島沢古墳群や丹後平古墳群があり、ガラスの小玉や鉄鏃、金銅製金具などが発見されている。その後、平安時代末期に南部氏が治めるようになるまで蝦夷の土地であり、律令制の及ばない地であった。
建久2年(1191年)、甲斐国の南部氏が北東北一帯を源頼朝から賜ったとされているが、南部氏が実際に北東北に移ってきたのは南北朝時代である。建武元年(1334年)、国代として糠部郡を支配することを命ぜられた南部氏分家の南部師行が根城を築き、根城南部氏の祖となった。その根拠地として石懸村八森(現在の八戸市根城地区)に築城した。[6]
八戸が東廻り航路の海港となったのは近代初頭で、初期の航路は銚子から利根川を利用したため川船に乗換えて江戸まで物資を運んでいた。元和期(1615年~1624年)には、八戸で海船の建造も行われるようになった。
根城南部氏は寛永4年(1627年)、本家盛岡南部氏の命により遠野に居城を移した。
1630年(寛永7年)、根城町から三日町・十三日町・廿三日町へ、新井田町から八日町・十八日町・廿八日町が柏崎城の下に移り、新しい城下町の町人町が設けられた。
寛文4年(1664年)、南部重直が世継ぎを決めずに亡くなったため南部藩は御家断絶となる。幕府は南部藩10万石を八戸2万石と盛岡8万石に分け、八戸藩を南部直房に与え八戸城が築かれ、八戸藩が始まり城下町として一層整備された。なお、八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、久慈市あたりまでが八戸藩であった。
1665年(寛文5年)八戸領内の産物を2隻の船で江戸へ送る[7]
1670年(寛文10年)河村瑞賢により銚子から江戸に直行する海路として、新しい東廻り航路が開設され物資の輸送に利用されるようになる。移出品は大豆、〆粕、魚油、鉄製品等。移入品は木綿、茶、紙、瀬戸物等[8]
1681年(天和元年)、マッコウクジラ36頭が八戸市白銀に揚がり浜が大いににぎわった。
元禄頃(1688年~1704年)には八戸城下町に隣接し、馬渕川および新井田川の河口に位置する、湊・鮫の両浦に屋敷割りが行われ、港町の性格を兼ねてきた。同時期の1690年(元禄3年)、六日町に海産物問屋の許可が与えられるようになる。[9]
1703年(元禄16年) 湊川口へ十分一役所が設置される
1706年(宝永3年) 白子権兵衛が新堀川(小中野)を改修し、船入り場を整備する
享保(1716年~1763年)時代にはいると、当時八戸地方の特産物だった大豆その他穀物、塩、〆粕、干鰯(ほしか)、魚油、鉄や移入品である絹、木綿、古着類が集散しはじめる。江戸などの遠隔地と交易が盛んになり、移入品の配給を独占した下町の御用達商人が藩経済を支配していた。[10]
1772年(安永元年)新堀川が洪水により埋没したため付替工事を実施する
八戸城は現在の三八城公園にあった。城下町には三日町、十三日町など市の立つ日を名前とした街が並んでおり、現在も市の中心地となっている。また、江戸時代の思想家、安藤昌益も暮らしており、十六日町にある浄土宗天聖寺で講和を開いたとされている。当時の八戸は、商人の町として思想や数学の先端を切り開いていき、その算木や算額が八戸藩主の墓の南部家墓所に通じる臨済宗南宗寺に保存されている。
天明三年(1783年)大飢饉が発生 当時の八戸領の人口6万5千人のうち3万人が餓死し、現在の八戸市の大字である新井田、十日市、田向、塩入(現在の柏崎、青葉)、岩渕(現在の白銀)地区の1418人のうち696人が亡くなった。また、治安が非常に悪化したため、放火や強盗が多く発生した。当時の人は海草や山草、藁を食べて飢えを凌いだと記録されている。[11]その記録が、対泉院の餓死萬霊等供養搭に記されている。 この不作対策として、米を備蓄し始めるようになり、当時の町民の行動は商人の八戸市の先進性を示していたといえる。
1825年(文政8年)、鮫浦で150m程の築堤工事が行われる
1826年(文政9年)、白銀浜に防波堤が築造される
1864年(元治元年)、八戸大火が発生
(昼間人口・常住人口・流入人口・流出人口・常住人口100人あたりの縦貫人口のデータは平成17年度10月1日現在のもの。旧南郷村と合併後の数値。)[19] |
|
||||||||||||||||||||||||||||
八戸市は若年人口の割合が減少しており、緩やかに65歳以上の人口が割合を増やしている。進学や就職、転勤とも併せて、年度末にあたる3月、4月には約4,000人が流出している。近年は、3月、4月に差し引き約1,000人総人口が減少する傾向がある。年間総数では転入が7,184人、転出が8,828人で傾向は八戸市のHPに統計が記載されてる平成7年度から年々転出が転入を上回る数が拡大している。
八戸市民は進学先や就職先が八戸市以外であることが多く、18歳(進学・就職期)の人口流出が顕著であり、22歳時(就職期)の人口流出がその次に多い。
下記の表は平成19年度の八戸市の転出・転入を都道府県別に示したものである。
| 転出先
ランキング |
都道府県 | 転出 | 転入 |
|---|---|---|---|
| 1 | 青森県内 | 2,644人 | 2,901人 |
| 2 | 東京都 | 1,014人 | 408人 |
| 3 | 宮城県 | 905人 | 681人 |
| 4 | 岩手県 | 784人 | 780人 |
| 5 | 神奈川県 | 610人 | 360人 |
| 6 | 千葉県 | 420人 | 277人 |
| 7 | 北海道 | 399人 | 337人 |
| 8 | 埼玉県 | 362人 | 219人 |
| 9 | 秋田県 | 198人 | 162人 |
| 10 | 愛知県 | 179人 | 78人 |
| 11 | 福島県 | 177人 | 119人 |
| 12 | 栃木県 | 135人 | 40人 |
| 13 | 国外 | 119人 | 80人 |
| 14 | 茨城県 | 101人 | 80人 |
八戸市は日本を代表する港町であり市内に八戸漁港をはじめとする6つの漁港を有しており、イカ、秋刀魚、鰯などを中心に水揚げがされ全国に出荷されている。また、当市は工業都市であり、工場労働者数や工業製品出荷額が北東北の中でも最も高い。さらに、第3次産業については年間小売販売額は横ばいであるが、八戸都市圏を含めを広範囲の商圏を持っている。
一方では高い失業率や一人あたりの所得額の低さなど全国平均に比べ格差が生じているといった問題も抱えている。[22]
八戸市の第1次産業部門は、沿岸部は水産業、内陸部は農業や林業が盛んである。
水産業は2007年(平成19年)の水揚高が数量が146,385トンで全国第3位、金額が244億4,163万円で全国第8位を誇っている。八戸市は水産都市として八戸港などの基盤整備が進められ、豊漁などもあり1956年(昭和31年)から1958年(昭和33年)にかけて3年連続して水揚げ日本一を記録するなど、日本有数の漁港である。最も水揚げ量が多かった1988年(昭和63年)には、81.9万トンを記録している。漁獲高は減少傾向にあるものの、現在でもイカの水揚量は日本一であり、他にもイワシやサバ、スケトウダラなどを中心に水揚されている。[27]
農業は旧八戸市地域では中核農家を中心として、「長いも」「にんにく」「ねぎ」「ピーマン」等の露地野菜が栽培されている。また「トマト」「きゅうり」等の施設園芸野菜や果樹・畜産等、集団的な生産活動が展開されている。さらに、水田転作による「いちご」、「大豆」が栽培されている。特にイチゴは県内一の生産量である。
また、南郷区地域では複合経営を主とした「葉たばこ」栽培のほか、観光振興と連動し、「ソバ」の産地化、「サクランボ」「ブルーベリー」などの果樹生産や農産加工に取り組んでいる。また、水稲作付面積は、1,400ha(2006年)で、平成18年からは、青森県が開発した新品種「まっしぐら」の栽培を拡大している。
果樹は栽培面積が、平成18年で418haであり、その6割は「りんご」が生産されている。花きの作付面積は、平成18年で41haである。主な品目は「菊」、「トルコギキョウ」等の切り花の他、「シクラメン」や「プリムラ類」を中心に鉢花の栽培も多い。
|
|
|
林業は森林面積が約10,219ha(2006年)であり、主として針葉樹の用材用が約6,404ha、他は広葉樹の雑木で低位利用地が多くなっていることが特徴である。畜産は、養鶏を主体としており、平成18年ではその羽数は、約180万羽である。[28]
八戸市の第2次産業の主たるもは、鉄鋼、パルプ・紙・紙加工品製造食品製造、飲料・飼料・たばこ製造・生産である。近年はこれらに加え、電子部品製造業などのハイテク産業の立地も進んでいる。[29] 当市の製造製品出荷額(2005年度)は4507億円で、これは2000年(平成12年)に比べ12.1%上昇している。2006年度東北地方における製造製品出荷額等の順位は北東北で1位。東北全体では福島市に次ぐ6位であり(速報値を含む)、青森県内の工業製品出荷額の39%を占めている。[30]近年の海外への輸出が好調であることが主な要因である。
八戸市は水産資源と地下資源などが恵まれており、