
經世濟民(経世済民 / けいせいさいみん)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」の意。
略して「經濟」(経済)ともいうが、主として英語の「economy」の訳語として使われている今日の用法とは異なり、本来はより広く政治・統治・行政全般を指示する語であった。以下、この記事では「經世濟民」および「經濟」の本来の用法と、その変遷について扱う。
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中国・東晋の葛洪の著作『抱朴子』内篇(地眞篇)には「經世濟俗」という語が現れ、經世濟民とほぼ同義で用いられている。時代がやや下り、隋代の王通『文中子』礼楽篇には、「皆有經濟之道、謂經世濟民」とあって、「經濟」が經世濟民の略語として用いられていたことがわかる。さらに後代の『晋書』殷浩伝(唐)、『宋史』王安石伝論(元)などにも「經濟」が現れるが、以上はもちろん政治・統治・行政一般を意味する用法である。清末、戊戌の政変後、従来のような儒教的教養によらず学識ある在野の有為な人材を登用するために新設された科挙の新科目「経済特科」も、この用法によるものである。
明末清初の中国で発展した考証学者による「経世致用の学」の影響を受け、江戸時代の日本でも儒学者などによる同種の「経世論」(経世済民論)が盛んに行われた。この「経世論」の代表的著作の一つで日本で初めて「經濟」の語を書名とした太宰春台『経済録』(18世紀前半)は、「凡(およそ)天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり」としており、この頃の「經世濟民(經濟)の學」は今日でいう経済学のみならず政治学・政策学・社会学などきわめて広範な領域をカバーするものであった。
しかし江戸後期に入って次第に貨幣経済が浸透すると「經濟」のなかでも「社会生活を営むのに必要な生産・消費・売買などの活動」という側面が強調されるようになり、19世紀前半の正司考祺『経済問答秘録』に「今世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」とあるように、(考祺は批判的に指摘しているものの)今日の用法に近い「經濟」が普及していた。以上のような用法の変化は、明・清代の中国の俗語において、金銭・財務に関連する(古典的用法と異なる)用法が広まったことの影響とする杉本つとむの見解もある。
明治期になり欧米から近代的経済学が導入されると、神田孝平『経済小学』などにより、「經濟」もしくは「經濟學」が英語の「political economy」の訳語として用いられるようになった。この結果、經濟(経済)は、従来からの「貨殖興利」という用法もあいまって、economyの訳語として理解されるようになり、「民を済ふ」という規範的な意味は稀薄となった。また、この新しい用法は本来の意味の「經濟」という語を生み出した中国(清)にも翻訳を通じて逆輸出され、以後東アジア文化圏全域で定着した。
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